人 物 解 説
梅田雲浜 若州小浜藩士。幕末の志士。朱子学派の儒者。国事建言で幕府の忌諱にふれ浪人。安政年間、条約勅許と将軍継嗣問題で奔走。大獄に連座して獄死。
品川弥二郎 (1843〜1900)松下村孰に学び、晋作らと尊王攘夷運動に参加、戊辰戦争では東北各地を転戦。後政治家となる。
前帝(安徳天皇) (1178〜1185)第81代。在位1180‐85。高倉天皇第1皇子。母は平清盛の娘建礼門院徳子。1183年義仲入京の際、平氏に擁せられて西海に落ち、85年壇ノ浦で平家一門と共に入水。
鈴木惟恭  
提山  
加藤有隣  
老蘇(宋の蘇洵)  
大西叔父  
寺島忠三郎 長州藩、幕末の志士。(1858)松下村塾に入り、松陰が獄につながれるや百方奔走した。後脱藩して攘夷運動に投じ、禁門の変で久坂玄瑞らとともに鷹司邸で自刃した。 
野村和作 1829〜1909.長州藩士。名は靖。松陰門下で、晋作らとともに奔走。七卿落ちに際してはその用掛となる。後内務・逓信大臣。 
楚の屈原  
寺島・寺内・有吉  
子大 久坂玄瑞。(1840〜1864)幕末の長州藩士、名通武、通称義助、号玄瑞。1862年藩論を公武合体から尊攘に一変させ、江戸のイギリス公使館焼討事件、下関の外国船砲撃に参加。(64)禁門の変を指導し負傷して自殺。 
達磨  
明慧  
奥平数馬  
桂小五郎 木戸孝允。 (1833〜1877)長州藩士。和田昌景の子。1865木戸と改姓。吉田松陰の門にはいり、のち斎藤弥九郎に剣術を、江川英龍に洋式兵術を学んだ。尊攘・討幕運動に指導的役割を果たした。西郷隆盛・大久保利通とともに維新の三傑といわれる。 
陳汝欽  
清水清太郎  
吉田松陰  長州藩士。幕末の尊王論者。思想家。杉家の二男。通称寅二郎。おじ吉田家の養子となり山鹿流軍学の家学を継ぐ。藩主に認められて長崎・江戸などに遊学、脱藩しようとして罪を得、閑居。のち再び江戸に出、佐久間象山に師事。1854ペリーの浦賀再来にあたり海外密航を企てたが失敗し、萩の野山獄につながれた。翌年出獄後、おじ玉木文之進の熟を受け継ぎ、56自邸内に松下村塾を開き高杉晋作・久坂玄瑞ら尊皇攘夷運動指導者多数を教育、門弟の明治維新に与えた力は大きい。安政5ヶ国条約に反対して攘夷を主唱し下獄、安政の大獄により江戸伝馬町の牢で刑死。
麻翁(麻田公輔)  周布政之助
頼三樹 幕末の尊攘派の志士・儒者。山陽の子。三樹三郎は通称。父の影響で梁川星巌・梅田雲浜等と交遊し尊攘運動ひ奔走。安政の大獄で捕らえられ、江戸小塚原で斬首された。 
小林民部  
伊藤俊輔 博文、号は春畝。長州藩出身。松下村塾に学び、木戸考允に従い尊皇攘夷運動に参加し、1863井上馨らとともにロンドンに渡ったが、四国艦隊下関砲撃事件を聞いて帰国、講和を工作。以後討幕運動に従って維新政府樹立に貢献。のち初代内閣総理大臣となる。
楢崎節庵  
西行 1118〜90.平安末期の歌人。新古今集の代表的歌人の一人。俗名佐藤義清。鳥羽天皇の北面の武士だったが、23歳の時出家して諸国を行脚。 
山岡八十郎  
堀真五郎  
杉呑鵬  
来島又兵衛 1816〜64.長州藩士喜多村家に生まれ来島家を継ぐ。奇兵隊に呼応して遊撃隊を組織。藩内急進派で、元治元年、京都進発を主張、その暴発をおさえるため藩命で説得に当たった晋作が逆に脱藩するきっかけとなる。禁門の変に奮戦、戦死する。 
徳川斉昭 1800〜60.江戸末期の水戸藩主、号は景山、諡は烈公。藤田東湖など人材を登用し、1841藩校として弘道館を設立。鉄砲鋳造、兵制改革など藩政改革に努力したが、朱子学的な尊攘的行動が幕府に嫌われ、44年謹慎を命じられた。 
淹弼 宋の輔弼(宰相)范仲淹
児玉百助  
周布政之助 1823〜64 幕末の長州藩政の改革指導者。村田清風の藩政改革の後を受け長州藩の改革を推進。一時は高杉晋作・久坂玄瑞らの信頼もあった。しかし禁門の変につぐ第1次長州征伐を前に山口の郊外で自刃した。 
文天祥  
福田良助(侠平) 悠々道人▼福田侠平 一八二九―六八。山口市後河原に生まれ、大内の氷上に住んだ。奇兵隊書記から参謀となる。鳥羽・伏見、戊辰戦争で戦った。墓は下関市の東行庵の高杉晋作の墓に並んで建てられてる。
井上与四郎  
井上聞多 1835〜1915.長州藩士。山口湯田に生まれ、長じて国事に奔走。英国に留学。元治元年長州藩の攘夷戦を知るや伊藤と共に帰国、四国連合艦隊との講和に高杉を助けるが、藩内抗争のため反対派に襲われ重傷を負うが奇跡的に回復。維新後外務・農商務・内務・大蔵各大臣を歴任。
山田  
楊井謙三  
白石正一郎 1811〜80.下関の回船問屋、豪商白石家の八代目。鈴木重胤に国学を学び勤皇の志厚く、維新時、400人に及ぶ各藩の志士と交わりこれを援助。白石邸は志士の連絡基地ともなり、おわば維新の裏方の役目をはたす。特に晋作との関係は深く、文久3年6月の奇兵隊結成もこの白石邸で行われた。その財力すべてを維新回天の為にささげ破産。赤間宮の宮司として生涯を終る。正一郎の日記は、第一級の維新資料であり、晋作も行動を知るためにも欠かせない。 
野唯人(中村円太)  
大庭伝七 白石正一郎の弟。1832〜85。維新時には志士と交わり、明治に入って文部省に出仕。
成功(鄭成功)  
山崎小三郎 英国にて死
谷松助  
山県有朋 1838〜1922。奇兵隊軍監。中間の出で、安政5年松陰門下となり、以後松門の人々と行動。慶応元年奇兵隊軍監となり、大田・絵堂に戦い、功を上げる。その後も奇兵隊を率い奮戦。維新後初代陸軍卿となる。 
服部良輔  
石田梅堂  
大田市之進  
前原一誠 (佐世八十郎)長州藩士、幕末の勤王家。松下村塾に学び討幕運動に参加した。木戸孝允と相容れず、明治9年萩に挙兵、捕縛され処刑された。
澤田真太郎  
上杉宋二郎 土佐の人
白石廉作 白石正一郎の弟、文久3年10月14日生野の義挙に参加し戦死した。
一樹 七卿の一人で生野の挙兵の為に首領に仰がれた沢宣嘉卿のこと
日柳燕石 1817〜68 幕末の勤王の志士。讃岐の人。詩文に通じばくちを好み、勤王の博徒として知られた。長州・土佐の尊攘派を助け高松藩獄に投じられた。戊辰戦争に従軍し越後柏崎で病死。
松浦無窮 松浦亀太郎、号松洞
来原良蔵  
林子平 1738〜93。江戸中期の経世家。寛政三奇人の一人。父は旧幕臣。兄が仙台藩士となったので仙台に移り、以来たびたび藩に経済・教育政策などを進言。長崎に3度遊学し、また江戸に出て、蘭学者と交遊。海外事情に通じ、特に北辺からのロシアの脅威に備え蝦夷地の開拓を行う必要を説いた。
宍戸左馬介 1804〜64。長州藩士。安政3年以来、京都藩邸に勤務していたが、8月の政変で帰国。海軍所の設置では大村の意見を全面的に支持し、その実現に一役買った。元治元年4月、大阪藩邸留守居役に就任、7月禁門の変で藩兵鎮撫に奔走したが効なく、のて野山獄で斬首された。 
毛利登人  
おうの 1843〜1909.赤間関遊女街裏町の妓楼堺屋の芸者として晋作にめぐりあい、四国亡命に同行。晋作死後は仏弟子梅処尼となり、東行庵で墓守りの生涯を送る。 
田中光顕 1843〜1939年。土佐藩出身。幕末土佐勤皇党に属し運動。維新後西南戦争の従軍。98年宮内大臣となる。政治家。
小笠原壱岐守  
孫呉 孫子と呉子、共に兵法の大家
松年生  
黙宇  
野村望東尼 1806〜67年。江戸時代末期の女流歌人。尊攘論者。名はもと。号は招月・向陵。福岡藩士野村貞貫の後妻。夫の死後落髪して望東尼と称した。高杉晋作・平野国臣・西郷隆盛等尊攘派の志士sと交遊があり、また彼らを庇護した。1865年福岡藩佐幕派による尊攘派処断に連座して姫島に流された時は高杉が救出、馬関から三田尻に移り病死。
佐久間象山 (1811〜1864)幕末の兵学者。信州松代藩士。佐藤一斉に朱子学を学び江戸神田に象山書院を興す。蘭学・砲術に通じ、開国論を唱えたが、攘夷派のため暗殺された。 
勝 海舟  (1823〜1899)江戸末期の幕臣・政治家。江戸の人。蘭学・兵学に通じ、1860年咸臨丸を指揮して太平洋を横断。64年海軍奉行。西郷隆盛と会見して江戸城明渡しに尽くした。